54 足利ゆかりの会(広島市)

■南北朝60年の動乱にあって、天下を三分した一人が足利直冬だ。
 日本六十六ヶ国は、吉野朝廷(南朝)、武家方(北朝)、これに対し南朝方の直冬(佐殿方)が鼎立したのだ。直冬は石見の松川高畑山城(島根県江津市)を本拠に、東が但馬で、南は日向へと領域経営を踏まえた英傑。尊氏の第2子で母は越前局、故あって直義の養子となる。正平10年(1355年)、山口の大内弘世と、但馬の山名時氏を補翼に京都制圧。その時の権威は「総追補使」に任じ征夷大将軍と同等権力だったのだ。南朝より拝した武門の「棟梁」。
 やがて高畑山城をかため「御所さま」とよばれ、天授2年(1376年)3代将軍義満との和睦がなるまで強運を保っている。
 風向きは石見守護職が大内氏から荒川詮頼に変わって急変した。襲われる不安から、直冬主従の逃避行は始まり、まず備後の北へ逃れた後、予定の桃源郷「別天地」を選ぶ。そこは渓谷を前にして東南へ開けた国境の地。しかも米作可能な要害で、広島県毛利氏の安芸領でも、利便一般を石見に頼った、北は高橋氏、西は吉川氏とみな恩顧地頭で固めた僻地だ。智教寺を営み多くの犠牲者の供養に努めたが、七十四歳の生涯をおえ「天下塚」と葬られた直冬の後はあわれだ。嘉吉の乱で将軍を弑した赤松に、備中井原御所の、直冬の孫「武衛」冬氏が、「旗頭」に担がれた為、幕府は全国的に乱関係者討滅を命じる。ために「天下塚」もひどいめに曝された。一帯は断崖石垣のほかは、殿舎は焼き討ち宝篋印塔さえ、ぶち壊すほどの徹底した痕を残すばかり…。直冬の子孫末葉は「御所さま」の、誉れと真実までを歴史韜晦の暗黒へ流されてしまう。
 ただし、嫡男系統は豊後の荻に成育し、古形式の本流系図ほか遺品など伝えたが、「天下塚」次男系は正当系を誇るのみで遺したもの一切皆無。不思議なことに「足利姓数」は広島県が全国一多い。
 しかし観点をかえると出雲大社の、6代将軍義教の赤絲縅肩白大鎧兜が「縦て二つ引き紋」とは不可解、また厳島神社の兜の紋がなぜ付け替えられ直冬奉献のゆかりを消そうとしたか。疑念は究める余地が多分にある。国重文直冬願文等の下関・忌宮神社や尾道・浄土寺のなど研鑽事績がいくらも存在する為、正しきを希い忠実へと明かりをあて忘却は厭い、後生に伝えるその真摯を求めたい。

地図検索用住所

広島県広島市中区本川町2-2-17


天下塚


出雲大社の鎧兜

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